東京高等裁判所 平成6年(行ケ)235号 判決 1996年1月18日
神奈川県川崎市中原区上小田中1015番地
原告
富士通株式会社
同代表者代表取締役
関澤義
同訴訟代理人弁護士
宇井正一
同弁理士
古賀哲次
東京都千代田区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官 清川佑二
同指定代理人
松村貞男
同
今野朗
同
土屋良弘
同
関口博
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
「特許庁が平成6年審判第551号事件について平成6年8月24日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
2 被告
主文と同旨の判決
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、名称を「液冷式半導体装置」とする特許第1518324号(以下「本件特許」といい、その発明を1本件発明」という。)の特許権者である。原告は、平成5年12月23日、本件特許について、次項記載の内容の誤記の訂正を求める審判の請求をした。特許庁は、この請求を平成6年審判第551号事件として審理した結果、平成6年8月24日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は、同年9月21日、原告に送達された。
2 本件訂正審判請求の内容
特許請求の範囲「容器中に封入した液体を利用して半導体チップを冷却する半導体装置において、前記冷却用液体が相互に相溶性である2種以上の塩素を含まないフルオロカーボンの混合物からなり、該フルオロカーボンの1成分が該フルオロカーボンの他の成分より沸点が10℃以上低くかつ10重量%以上30重量%未満の割合で含有されて成ることを特徴とする半導体装置。」中の「低」を「高」に訂正し、発明の詳細な説明中の3箇所(特公昭63-67336号公報(甲第2号証)2欄23行、同4欄25行、4欄31行)の「低」をいずれも「高」に訂正するもの。
3 審決の理由の要点
(1) 本件訂正審判請求の内容は、前項記載のとおりである。
(2) 次に、これらの訂正事項について審究する。
本件特許明細書の特許請求の範囲に記載されたフルオロカーボン混合物に10重量%以上30重量%未満の割合で含有される第1成分の沸点を他の成分の沸点より10℃以上低くする旨の記載における「低」の記載は、それ自体極めて明瞭で、明細書中の他の項の記載等を参酌しなければ理解し得ないものではなく、しかも、「低」と「高」との差は顕著であり、それに基づく温度差は半導体チップの冷却に著しく差異を及ぼすものであるにもかかわらず、明細書の全文を通じて表現される文言は一貫して「低」と記載されているので、当業者であれば容易に「低」を「高」の誤記であることに気付いて「高」の趣旨に理解するのが当然であるとはいえない。
してみると、前記特許請求の範囲に記載された「低」の記載は、請求人(原告)の立場からすれば、実施例の記載を詳細にみると自明の誤記であるとしても、第三者の立場からすれば、特許請求の範囲の記載からみて、または、特許請求の範囲の記載及び発明の詳細な説明の項の記載からみて、直ちに自明の誤記であるとすることができないので、上記のとおり「低」として表示された特許請求の範囲が本件特許明細書の特許請求の範囲というべきである。
(3) したがって、本件特許明細書の特許請求の範囲に記載された「低」を「高」に訂正することは、一般第三者の利益を著しく害することとなるものであって、実質的に特許請求の範囲を変更するものといえるものであるから、本件の訂正審判の請求は、特許法126条2項の規定に適合しない。
4 審決を取り消すべき事由
審決の理由の要点(1)は認めるが、同(2)、(3)は争う。
審決は、本件訂正審判請求の内容が実質上特許請求の範囲を拡張、変更しない誤記の訂正であるにもかかわらず、その訂正を認めなかったものであるから、違法として取り消されるべきである。
(1) 誤記の訂正が特許法126条2項の「実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更する」か否かを判断するに当たっては、当業者の立場から特許明細書全体の記載に基づいて判断して、訂正前の記載が誤記であること、そして訂正後の記載が本来の正しい記載であることが認められれば、その誤記の訂正は、実質上特許請求の範囲を拡張又は変更するものではないというべきである。
(2) 本件においては、本件特許明細書の特許請求の範囲等の記載と実施例及び図面の記載が完全に矛盾することになるので、そのいずれかが誤記であることが分かる。
(3)<1> 次に、本件特許明細書全体の記載に基づいて判断すれば、特許請求の範囲等の記載が誤記であり、正しくは、「低」沸点フルオロカーボンに対して「高」沸点フルオロカーボンを10重量%以上30重量%未満含む冷却用液体であることが客観的に理解できるのである。すなわち、
<2> 容器に封入した液体を利用して半導体チップを冷却する半導体装置は、発熱性の半導体装置を、冷媒として所望冷却温度付近の沸点を持つフルオロカーボン中に浸漬して冷媒の沸騰による気化熱、気泡による乱流を利用して冷却を行うものであるが、実際には理論上の沸点ではなくそれよりいくらか高い温度で初めて沸騰し、この沸騰の遅れが適性温度への冷却目的を狂わせるとともに、突沸現象を生じて急激な温度変化を起こすので、半導体装置の温度依存特性を変更し、好ましくないという問題があった(甲第2号証1欄15行ないし2欄10行)が、本件発明は、この問題を解決しようとするものである。
<3> 本件特許明細書に記載されたすべての実施例は、沸点が10℃以上高いもう1つのフルオロカーボンを10重量%以上30重量%未満の割合で混合することを内容としている。すなわち、実施例1では、沸点50℃のFC-78(3M社のC4NOF11を主成分とするフルオロカーボン)80重量%と、沸点102℃のFC-75(3M社のC7F16COを主成分とするフルオロカーボン)20重量%を混合することにより、本件特許明細書添付の第2図(別紙図面参照)の曲線Cが示すように、沸騰の遅れも突沸もなくなり、液体の理論的な沸点に達すると自然に沸騰し始めて液体の気化熱による冷却の状態に入ることが記載されている(甲第2号証3欄3行ないし42行)。
実施例2では、沸点56℃のFX3250(パラフルオロヘキサン)に、沸点101℃のFX3300(フルオロ-2-オクタン)を10重量%以上30重量%未満混合した場合に、本件特許明細書添付の第4図(別紙図面参照)に見られるように、オーバーシュートがほとんどなくなることが記載されている(同3欄末行ないし4欄12行)。
<4> そして、上記実施例で用いられている冷媒が当該技術分野では広く知られた化学物質であり、その沸点も周知であるので、実施例の記載や、特に特許請求の範囲等に記載の冷媒の混合範囲を選択する根拠となった本件特許明細書添付の第4図等を全体的に判断すれば、特許請求の範囲等の記載が誤記であり、正しくは、「低」沸点フルオロカーボンに対して「高」沸点フルオロカーボンを10重量%以上30重量%未満含む冷却用液体であることが客観的に理解される。
<5> 原告が、あるフルオロカーボンにそれより沸点が10℃以上高いもう1つのフルオロカーボンを10重量%以上30重量%未満の割合で混合する要件を加入しようとした理由は、審査官の拒絶理由通知書(昭和62年10月13日付け)で引用された従来技術(特開昭52-38662号公報)を回避することが1つの目的であった。上記引用例には、30-80重量%のテトラクロロディフルオロエタン(沸点93℃、高沸点成分)と70-20重量%のトリクロロスルオロエタン(沸点47.6℃、低沸点成分)を混合した冷媒が開示されている。したがって、本件発明は、低沸点成分に対して高沸点成分を30重量%未満混合して初めて上記引用例に開示された混合冷媒の組成と識別することができるのであり、本件特許明細書の特許請求の範囲に誤記されているように高沸点成分に対して低沸点成分を30重量%未満混合したのでは、上記引用例に開示された混合冷媒の組成と識別することができなくなる。
第3 請求の原因に対する認否及び反論
1 請求の原因1ないし3は認める。同4のうち、(1)、(2)は争う。(3)<1>は争う。同<2>、<3>は認める。同<4>は争う。同<5>のうち、審査官の拒絶理由通知書(昭和62年10月13日付け)で引用された従来技術(特開昭52-38662号公報)には、30-80重量%のテトラクロロディフルオロタン(沸点93℃、高沸点成分)と70-20重量%のトリクロロスルオロエタン(沸点47.6℃、低沸点成分)を混合した冷媒が開示されていることは認め、その余は争う。
審決の判断は正当であって、原告主張の誤りはない。
2 反論
(1) 特許法126条2項でいう「実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更する」ものであるか否かの判断は、特許請求の範囲には、発明の詳細な説明に記載した発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しなければならないこと(特許法36条5項)及び特許発明の技術範囲は、願書に添付した明細書の特許請求の範囲の記載に基いて定めなければならないこと(同法70条)からして、明細書の特許請求の範囲の項の記載を基準としてなされるべきものとされている(最高裁昭和41年(行ツ)第46号同47年12月14日第一小法廷判決参照)。
(2) そして、本件特許明細書の特許請求の範囲に記載されたフルオロカーボン混合物に10重量%以上30重量%未満の割合で含有された第1成分の沸点を他の成分の沸点より10℃以上低くする旨の記載における「低」の記載は、それ自体極めて明瞭で、明細書中の他の項の記載を参酌しなければ理解し得ないものではないから、本件特許明細書の特許請求の範囲における「低」の記載は、第三者の立場から客観的に見て、実質上特許請求の範囲を変更しない訂正として「高」にすることが許される自明の誤記といえるものではない。
(3) 本件特許明細書の発明の詳細な説明の項の記載を含めて客観的に見たとしても、特許請求の範囲に記載された「低」の記載は、それ自体極めて明瞭で、明細書中の他の項の記載を参酌しなければ理解し得ないものではなく、「低」と「高」の差は顕著であり、それに基づく温度差は半導体チップの冷却に著しく差異を及ぼすものであるにもかかわらず、本件特許明細書の全文を通じて表現される文言は一貫して「低」と記載されているのであるから、やはり自明の誤記とはいえないものである。
(4) 原告は、請求の原因4(3)<5>で、審査過程の事情に基づく主張をしているが、本件特許の審査過程の事情は、特許法126条2項でいう実質上特許請求の範囲を変更するものであるか否かの判断に何ら関係のないものである。
第4 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録記載のとおりであって、書証の成立はいずれも当事者間に争いがない。
理由
1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本件訂正審判請求の内容)及び同3(審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告主張の取消事由の当否について検討する。
(1) 前記判示のとおり、本件発明の特許請求の範囲には、「容器に封入した液体を利用して半導体チップを冷却する半導体装置において、前記冷却用液体が相互に相溶性である2種以上の塩素を含まないフルオロカーボンの混合物からなり、該フルオロカーボンの1成分が該フルオロカーボンの他の成分より沸点が10℃以上低くかつ10重量%以上30重量%未満の割合で含有されて成ることを特徴とする半導体装置。」と記載され、低沸点成分の割合の方が少量であることが記載されている。
そして、甲第2号証によれば、本件特許明細書の発明の詳細な説明の項にも、「該フルオロカーボンの1成分が該フルオロカーボンの他の成分より沸点が10℃以上低くかつ10重量%以上30重量%未満の割合で含有されて成ることを特徴とする。」(2欄21行ないし24行)、「沸点が10℃以上異なる2種類以上のフルオロカーボンのうち低沸点成分を10重量%以上30重量%未満含有する」(4欄24行ないし26行)、「最低沸点成分の量を10~30重量%の範囲内としたのは」(4欄31行ないし33行)と、実施例の記載を除く本文には一貫して低沸点成分の割合の方が少量であることが記載されていることが認められる。
これに対し、請求の原因4(3)<3>の事実(2つの実施例の内容)は、当事者間に争いがなく、これらの実施例は、いずれも高沸点成分の割合の方を少量とするものである。
(2) そこで、次に、以上の事実に基づき、本件審判請求にかかる補正後の明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明中の沸点の「低」をいずれも「高」に訂正することが、特許法126条2項にいう実質上特許請求の範囲を変更するものか否かにつき検討する。
たしかに、当業者が本件特許明細書を特許請求の範囲の項のみならず発明の詳細な説明の項を含めて通読すれば、本件特許明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の項の本文の記載と実施例及び図面の記載との間に矛盾があることに容易に気付くものと認められる。
しかしながら、本件特許明細書の「特許請求の範囲」の項に記載されたフルオロカーボン混合物の成分を10重量%以上30重量%未満の割合で他の成分の沸点より10℃以上「低く」する旨の記載は、本件発明の構成に欠くことのできない事項の一つであって、その記載自体きわめて明瞭であるうえ、上記明細書の「発明の詳細な説明」の項の実施例を除く本文部分には、一貫して同趣旨が記載されている。
また、原告が主張するように、前記実施例で用いられている冷媒が当該技術分野では広く知られた化学物質であり、その沸点も周知であるとしても、その事実のみから、当業者が本件特許明細書に接して、沸点の相違する2つの化学物質のうちどちらを多く混合したかの点や、実施例等の記載の方が正しいことを当然には導き出すことはできないところ、他に前記のとおり、本件特許明細書の矛盾する記載のうち実施例等の記載の方が正しいことを導き出すことができる根拠の主張はない。なお、本件特許明細書の発明の詳細な説明中の「2種類のフルオロカーボン(・・・・)を混合することによって沸点が安定化する理由は必ずしも明らかではないが、」(甲第2号証4欄17行ないし19行)との記載からすると、通常低沸点成分が少量であることは理論上あり得ない等の技術常識も見いだすことができない。
さらに、原告は、沸点が10℃以上高いもう1つのフルオロカーボンを10重量%以上30重量%未満の割合で混合する要件を加入しようとした理由は、審査官の拒絶理由通知書(昭和62年10月13日付け)で引用された従来技術(特開昭52-38662号公報)を回避することが1つの目的であったのであり、低沸点成分を30重量%未満混合したのではその目的を達成できないことを、自明の誤記か否かの判断に当たり考慮すべきである旨主張する。しかしながら、特許公報のほか、拒絶理由通知の内容等一切の手続書類を読まなければ明らかとならないような誤記は、特許法126条2項にいう実質上特許請求の範囲を拡張、変更しない誤記に当たらないことは明らかであり、原告の主張は到底採用できない。
以上によれば、当業者であれば何びとも、本件特許明細書における矛盾した記載のうち、特許請求の範囲等の記載の方が誤記であることが一見して明らかに知り得たと認めることはできないといわなければならない。
(3) 以上のとおりであって、本件訂正審判請求の内容が自明の誤記ではないとしてこれを認めなかった審決に誤りはなく、原告主張の取消事由は理由がない。
3 よって、原告の本訴請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 伊藤博 裁判官 濵崎浩一 裁判官 市川正巳)
別紙図面
<省略>